戊辰戦争研究会の掲示板



[2974] III 先祖探訪ー先祖のご霊前に Name:村上久三郎 2017/10/21(土) 22:24 
 貞次郎は、私の生家の近くに住んだ。当時、我が生家には「久三郎」がいた。
ある日、二人はこんな会話をした。

 貞次郎「もとをただすと、俺は、深谷の生まれでな、戊辰戦争では、親族が幕府側に
     ついた佐幕だったのだ」

 久三郎「じつは、俺も、もとをただすと、村上藩主の近くにいた藩士の息子だよ」
 貞次郎「そうか。世の中変わったなぁ。村上藩主の何か、あるかね。」
 久三郎「最後の殿様が子供の時読んだ絵本があるよ」
 貞次郎「どんな本だい」
 久三郎「大したことはないよ。江戸ではやった読本だよ。信民公も子供
     の頃はゲタゲラ笑っていただろうに、お気の毒になぁ」
 貞次郎「うーん。どうも我々は、運命を共にしているね。どうだ、俺の家に娘がいる
     が、大きくなったらお前の子供に嫁にやるが」
 久三郎「それはいい話だ」
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 貞次郎が他界した時、その娘は11歳でした。その後、娘は久三郎の孫に嫁ぎました。この娘が私の母です。

 私の母と祖母の当主が高齢ですが無病で元気です。94歳と104歳。どちらの家族も非常に和やかで円満です。祖母の生家の庭の落ち葉などを私が捨てています。こういう関係は最高に幸せです。


[2973] II 親族探訪ー先祖のご霊前に Name:村上久三郎 2017/10/21(土) 22:07 
 貞次郎に子供が生まれた。この子は体格の立派な男に成長し、妻をめとることになった。私の母の妹が、離れた村に嫁いでいた。この妹の隣の女性が上述の「妻」になった。
 貞次郎は私の祖母に、まゆから絹糸を作る「ざくり」を教えた。
また、絹糸で魚(鮭)の編を作った。絹糸は非常に強い
 貞次郎は広範囲に養蚕を指導した。ある村で、蚕の卵から、ふ化させる事業もやった。私は「貞次郎を歩く」を試み、自転車で各村を訪問した。しかし、その痕跡を見出すことはほとんどできなかった。明治期のことを口承で伝える人がいなかったのだ。
 明治末期に、貞次郎は他界した。やがて大正時代に入った。父は福島県伊達郡の長谷部喜八郎さんと交流した。長谷部家は、蚕の卵を作る専門だった。どいうわけか、喜八郎さんが、我が家に来て、私の生家の「ある税金」を支払った証がある。長谷部さんは極めて達筆。なお、祖母が使用した「ざくり」と「魚を捕る編」は私が所有している。不思議なことがありました。


[2972] I 親族探訪ー先祖のご霊前に Name:村上久三郎 2017/10/21(土) 16:08 
 親族の歴史を調べた。情報提供者には、寺の住職らがいる。他家のことは、とやかく書くのは失礼になるが親族ならよいだろう。しかし、親族には「言ってはならぬ」こともあり、詳細は書きにくいものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 江戸末期ころ、私の母の生家の先祖に娘がいた。娘は、私の生家の近くの某家のお手伝いをしていた。某家の当主が、この娘を大変気に入り、自分の屋敷の南側に「家」を建ててくれた。さらに、娘に、お婿さんを見つけてくれた。私が子供のころ、この「家」の井戸を見たことがあるが、「なぜ、屋外に井戸があるのだろうか」と不思議に思った。仔細はよく分らなかった。娘には子供がなく、やがてその家は絶え、空き家となった。

 幕末の戊辰戦争ころ、武州・深谷も揺れた。ちょうどそのころ、渋沢一族に、10歳くらいの貞次郎がいた。上野戦争などの戊辰戦争をよく見ていた。貞次郎は明治に入り、上州高山社で養蚕法を学び養蚕の先生となった。

 貞次郎さんは、北海道に養蚕を広めるため、上州から新潟に参り、そこから船で北海道に渡る予定だった。ところが、新潟県の某市で、ある美しい魅力的な女性と出会った。

 あまり詳細は書けないが、とにかく、貞次郎さんは、この女性を人生の伴侶に選んだ。北海道行きをやめ、新潟県に骨を埋める決意である。はるばる、二人は歩いて北へ行き、村上城下町に着いた。城下町の北側に門前川があり、そこに山辺里という集落がある。

 貞次郎は、さべりの絹織物の老舗で、「このへんで養蚕をしているところはないかね」と聞いた。老舗の当主は「北のほうに〇〇村がある。そこでやっているよ」と言った。

 こうして貞次郎は〇〇村を目指した。〇〇村は、私の故郷。私の母の故郷。そこで、
私の母の生家の当主が「うちに、家があるから、よかったら、そこに住んだらよいよ」と言った。こうして、貞次郎夫婦は、わが母の生家の家族のようになった。
 
 明治政府は、富国強兵政策で徴兵制となった。貞次郎に男の子が生まれた。
男の子が成人になった。私の母の生家の当主は「男の子は我が家に生まれたので、我が家の子。子を分家にする」と言った。つまり、これで、書類上の戸籍が明確になった。つまり、「貞次郎は、わが母の生家の家族であった」というわけだ。

 明治43年、貞次郎は村人に惜しまれて、他界した。村人50名の賛同者が、山の方の集落へ行って、石碑になる石を運んだ。その石碑は今も、寺の参道にある。

 ところが、村人は、石碑に「設楽貞次郎」と彫るべきなのに、「説薬貞次郎」と彫った。

 「なぜ?」。これが我が親族の歴史ロマンである。


[2971] 絵になる光景 Name:村上久三郎 2017/10/18(水) 18:56 
野辺の花を摘む少女たち

 私は、幼馴染(近所の少女たち)と野辺に行き、花を摘んだことがしばしばあります。このような体験は非常に美しく、いまだに鮮明に瞼に映ります。小学低学年の少女たちの顔は「観音様」とも違い、形容できないです。
 早春のころ一面に咲くレンゲ。少女たちは互いに、おつむに花を挿しあう。
手が多少絡み合います。小さい手つきが美しい。少女たちはレンゲで花の輪を作り、頭にさしてくれます。そして、歌も歌います。ぽかぽかの春。寝そべると、トンビが舞っています。ときどき急降下。こんな体験をできるのは農村ならでは。妻は「少女が好きな趣味」と言います。
 中学になると、全く、できなくなります。成人になると、会うこともできません。再会した時は、おばさんです。中間がありません。
 このような体験は、その後、人生行路に素敵な思い出となり、短歌を70位作りました。題名は「早春歌」で、少女的な短歌ですが全部暗唱しています。

木の橋
 
 今年の夏、自転車で近くの集落へ行きました。自転車は便利です。
集落から離れるときれいな川があり、川べりを歩いていましたら、長い木の橋がありました。危険らしく渡れません。美しい橋で、絵になります。忘れないように写真を撮りました。

父と娘
 親族の話ですが、100歳を超える父に桜を見せる娘さん。桜は彼らの生家の庭にある。素敵な家族を持つ娘さん。 


[2970] 「ザ・戊辰研マガジン」発行の件 Name:山本覚馬 2017/10/17(火) 14:23 
「ザ・戊辰研マガジン」の記事を募集しています。

この度、戊辰戦争研究会では星先生発案のネットマガジンを発行する予定であります。
ネットで見れて、ネットで読める本です。

月刊にするか不定期にするかはまだ未定です。
記事の数や内容によって発行サイクルを決めたいと思います。

幕末や戊辰戦争、そして明治を題材とした内容で進めますので、こんな事あんな事、記事にしたい話題がありましたらマガジンに載せみてはいかがでしょうか。
画像も載せることが出来ます。
勿論、内容によっては連載も可能です。
記事にはコメント欄が付きますので、読者とのコミュニケーションも図れます。

自分で書きあげた小説や物語、あまり世の中に知れ渡っていないものがあれば、この機会にマガジンに載せて全国に発信しませんか?
せっかく書きあげたものが埋もれたままでは勿体ない。

また、ここのホームページに投稿した記事をマガジンにも載せると言った事も可能ですので、希望がある方は遠慮なくお申しつけ下さい。

記事の投稿には少し面倒なパソコン操作手順がありますので、私の方で代理で記事に載せようかと思っております。

無料マガジンとして発行ですので、書いた方も読む方も、料金は発生しません。
有料マガジンにすれば設定料金の収入が発生しますが、それはゆくゆくの話として、最初は無料で広く知ってもらう事を重視したいと思っています。

創刊号が発刊に向け着々と進んでおりますので、是非検討をお願い致します。

記事はメールで受け付けしますので
norippe@qk9.so-net.ne.jp
マガジン発行責任者 山本覚馬(関根)までお願い致します。



[2969] 祝言ー主婦と文化 Name:村上久三郎 2017/10/14(土) 21:38 
 故郷で感じることは、「故郷の文化に、ご婦人たちが貢献している」ということ。
「村上在郷の美」のようなものをまとめている。まず、今回は写真を添付せず紹介したい。

1 山辺里(さべり)織・・・この始まりは、約230年前、農村のある娘が絹織物を織っていたらしい。娘が住んでいた集落へ行って聞いたが誰も知らない。書類には書いてある。農村には不思議なことがある。長い絹織物はきれいで素晴らしい。歴代の村上藩主はここで織られた袴をはいていた。

2 養蚕と繭の花・・・畳一枚の大きさの平面繭を作っているのが、横井さんご夫婦。横井家に入って家も見せて戴いた。さすがは御殿のようで素晴らしい。私がこれまで見た家で、最も素晴らしい家。都会で建てたら、多分、数億円。養蚕と繭の花には女性が大きく貢献している。繭の花は日本が外国に誇れる文化の一つ。

3 今年初めて見せて戴いたのが、大場沢という集落で「木から、ほおづき」を作っておられるご婦人。2代目らしい。先代はお父さん。握りこぶしの半分くらいの大きさのほおづき2個で1500円とか。買いたい方がおられたら手配します。形と色が自然の「ほおづき」にそっくり。女性がクルクル工具を廻している。柿の木から、ナスなども作っておられる。黒柿である。黒柿は柿の木の1%位らしい。

4 糀屋
 大豆を大きな窯で煮る。これは、外国人にも受ける観光の目玉になると思う。羽振りが良いのが糀屋。味噌と甘酒が最高。

5 樹木の剪定
 これは女性特有の仕事ではありませんが、故郷には「樹木の剪定」をやるおばさんが数名いる。相当に上手で、「主婦が樹木を剪定している様子」は、多分、国外観光客に
受けるような気がする。私の親族は「おかみさん」。ときどき帰省。剪定が格別うまい。庭の落ち葉は私が捨てる。新潟市で、会合をやられるときは、親族のお店でやって戴けたら幸いです。二階で会合ができます。新潟市でも、知られた「老舗の鮨屋」。日本海の鮨は美味しいです。

6 おかむり
 おかむりは女性が頭にかぶるもので、目だけ見えます。日焼け止めとガンの予防のため、被るもので、田畑仕事の時は、女性全員かぶります。黒く日焼けしている女性は、まず、いないです。この「おかむり」が観光の目玉になると思っています。許可をもらって、だいぶ写真を撮りました。

7 ご詠歌
 外国人には、おばさんたちのご詠歌唱和の意味は分からいですが、リズムは幻想の世界に引き込みます。5-7 は観光の目玉になるかどうか分かりませんが、一応、書いてみました。

8 父と娘
 これは、一時的な出来事ですので、観光の目玉には向かないように思うが、私が非常に幸せに、そして美しく思う場面は、親族の「娘と父」である。「娘と父」は故郷を離れているが、春になると、生家に桜が咲く。その花見に、娘が父を連れて花見に来る。「俺は、いい娘をもって幸せだなぁ」と思う人は幸せで、思っている間に100歳を超える。


故郷の観光の目玉として、今回、約30カ所を確認しました。観光ガイドを現在作成中です。観光を活発にし、故郷の皆さんに、経済的に利することを考えているわけですが、うまく行くかどうかわかりません。「無常」を覚悟しています。


[2968] 3 昔の祝言 Name:村上久三郎 2017/10/13(金) 19:33 
 昔の祝言ができるように生家で物品を用意している。会津塗りの会席膳が一番高価。
観光を目標にしているがどうなることか。
 
 子供の時、子守をしたが、女の子より男の子は総じて、臓器が弱い。これは、赤ちゃんの「おしめ」を替えるとよく分かる。おんぶをしているとき、男の子は柔らかい便を漏らすことがある。これは悲惨で、その後、相当、大変な仕事が待っている。

 おしめは近くの小川で洗う。便は多分、魚のえさに。
戦後を除けば、大体、少子です。二人くらいかな。

 分家で家が増えてゆくので、集落では「親戚だらけ」となる。お産祝いにいろいろの物をもらう。大体、150人くらいから物をもらう。結構、社交範囲が広い。明治維新以降の記録が残されているが、ニシンが多い。


[2967] 昔の祝言と生活様式 Name:村上久三郎 2017/10/13(金) 15:06 
 女房が40代になると、孫ができ始めます。主人は40代のころ、西国三十三観音めぐりに出かけます。これは熊野、奈良、京都などをめぐります。最初は熊野です。
巡礼には、4−6か月の休暇が必要です。昔の農村では、休暇が多く、現代のように働きません。11月ー3月までは農閑期で、友達とワラ仕事です。のんびりした生活です。
赤ちゃんの子守は、お爺さんか子供がやり、主婦が赤ちゃんをおんぶすることはありません。三十三の寺の特徴はご詠歌で分かります。農村の女性は、今でも、ご詠歌を暗唱している人が多いです。
 生活で苦しい人の子供を「もらう」こともありました。今では考えられません。
現代から見ると「のんびりした生活」です。お風呂は、沸かすのが大変なので、毎日入るとは限りません。 50代になると隠居の生活に入り、60歳になると、お爺さんお婆さんです。「現在社会の女性の生活はとても大変」と思っています。


[2966] 昔の「祝言」 Name:村上久三郎 2017/10/13(金) 14:43 
 故郷では「結婚」を「祝言」と言いました。戦後までの農村では、15-20才で結婚する女性が多かったです。腹が大きくなると、歩く時の注意事項を、姑が教えます。最初の子は20歳くらいで生みます。赤ちゃんは、100日間、たらいの産湯で洗います。首の持ち方なども姑が教えます。子供も周りにいるので、赤ちゃんの育て方を知ります。こうして、子供も子守ができるわけです。
 産後は「中将湯」を飲みましした。これは香りがよいです。私は、もう一度、あの香りをかぎたいと思い、探していますが、手に入りません。
 
 奈良県宇陀市に青蓮寺という尼寺がありますが、中将姫が、ここの尼さんでした。
中将姫から中将湯が生まれました。

 


[2965] 喜多方・清治袋(せいぢふくろ)村 Name:鈴木丹下 2017/10/11(水) 09:51 
 私は、この10月3日、喜多方市を訪れていた。会津戊辰戦争の敗戦後、曾祖母・鈴木光子らが暮らしていた村を探すためである。
 明治元年(1868)9月22日、会津藩主・松平容保は鶴ヶ城を開城し新政府軍に全面降伏した。そのため、曾祖母の回想記に拠ると、光子は戦禍を逃れ国境沿いにひと月もつづいた流浪を止め、母、祖母、伯母とともに清治袋村の親類の家にひとまず落ち着く。それまでに住んでいた郭内・本ノ二丁の北原匡の屋敷が戦火で焼失し、さらに、城下に留まっていた哀れみの情など全く持たない薩長兵の残虐な仕打ちを避けるためであった。

 少し余談になるが、光子の父・鈴木丹下がその一部を借りていた北原匡の屋敷には「七年史」を著す北原雅長が住んでいたことを、最近知った。「七年史」には、丹下が文久3年(1863)8月18日の京都における政変の様子を記した「騒擾日記」の全文が収められている。「騒擾日記」は、毎日のことを綴る日記ではなく、八月十八日の政変一日のことを詳細に記した文書である。
 北原雅長は、幕末における会津藩の立場を明確にしておきたいと考え、天皇をお守りした政変時の様子を執筆するよう、ちょうど同じ屋敷内に住み親しくしていた丹下に依頼していたのではないだろうか…。その時二人は、どんな話を交わしていたのか、想像が膨らむところである。

 清治袋村は現在の喜多方市に存在していない。
 喜多方市史第二巻(近世通史編U)に添付されている「近世後期北方地方の組の範囲」という図面を探しだした。それに拠ると、清治袋村は喜多方駅すぐ北側の辺りということが分かった。さらに、同市史に村の東3町20間(約370m)に田付川が流れ、村の西1町10間(約130m)に熊野宮があると記されている。いずれも、村周辺に存在する山川、神社を表している。
 現在、熊野神社は駅の北東すぐのところにあり、鳥居と拝殿が残されていた。石の鳥居と拝殿に掲げられた扁額に長い時の流れを感じた。そこから東に600mほど歩くと田付川にぶつかる。
 この神社から川までのあいだに清治袋村があったと断定してよい。

 明治8年、この清治袋村と近傍の小田付、小荒井、塚原、稲村の五村が合併し、現在の喜多方市の中核となる町ができた。当時から小田付と小荒井がこの地の生業の中心であった。現在でもおたづき蔵通り(小田付)≠ニふれあい通り(小荒井)≠ノたくさんの倉や古民家が残され、喜多方の観光の中心となっている。


61件〜70件(全2,769件)  2345791011       <RSS>    【管理者へ連絡


無料レンタル掲示板 WEBでき