戊辰戦争研究会の掲示板



[2984] ザ・戊辰研マガジン創刊号 Name:山本覚馬 2017/11/09(木) 01:07 
「ザ・戊辰研マガジン」
めでたく創刊号が発刊となりました。
下記URLをクリックで開きます。

https://boshinken.publishers.fm/

まったくゼロ知識からのスタートでしたので苦労しましたが、やっとここまで辿り着きました。
これもひとえに、四苦八苦しながら原稿入力をして下さった高橋さん、伊藤さん、快く原稿の協力を頂きました鈴木会長、そして何と言っても戊辰研マガジンの発案者である星先生のおかげと深く感謝しております。
まだまだ未熟な内容ですが、更なる皆様のご協力を頂き、また新たに参加される方々の力添えで、飛躍したマガジンが出来るのではないかと思っております。
今、次号に向けての編集が始まりました。
これを機会に、こんな事あんな事、皆様の頭の中に埋もれた知識や情報を是非このマガジンに載せてみてはいかがでしょうか?
自分が記者になって記事を書き上げて頂くのが一番ですが、パソコン操作は苦手という方には、こちらで代理アップも出来ますので遠慮なくお申し付け下さい。
原稿はワードでも一太郎でもエクセルでもメモ帳で作ったデータでもなんでも構いません。
来るもの阻みません!(^^;
ご覧になってご意見などありましたらコメントお願い致します。

https://boshinken.publishers.fm/

※スマホでも見れます。



[2983] 故郷のお爺さんー夢の世界 Name:村上久三郎 2017/11/08(水) 21:12 
 高齢の方々と交流していて、ふと夢の世界に浸るようなことがある。
戊辰戦争と関係ない話ですみません。

 ある集落の「お爺さん」を訪ねた。もと兵士だったが、戦後、漆カキになった。今、90代半ば。

「漆の林を見せてやる」ということで、連れられて行った。途中、栃の木の林があり、数百本の木があった。

「ここだよ。おれが漆カキのしぐさをする」。古い漆の木が沢山ある。ずいぶん前に、かいた跡がある。「この辺には300人の漆カキがいたよ」。「漆にかぶれないですか?」と聞くと、「最初はかぶれるが、そのうちにかぶれなくなる」「ほー」と答える。

「これは俺が漆カキに使った容器(桶)だが、あんたに、みんな、あげるよ」とのこと。「いやいや、これはおじさんの宝物。大切に保管して下さいね」というと。「いや、あんたにあげるよ」という。「それなら、一つだけ戴いて、大切に保管します」と一つだけ戴く。

「よもぎも作っているんだ。見せるよ」とお爺さんが言う。
「ほー。これらを煮るんですか」
「そうだよ。煮て干すのだ」
「そうですか」


[2982] 「坂本龍馬研究への提言」 Name:神保修理 2017/11/08(水) 17:04 
私の「備前岡山と龍馬」も付録として収録されております。
宜しくお願い申し上げます!



[2981] 故郷のお婆さんー大恋愛結婚 Name:村上久三郎 2017/11/07(火) 21:27 
 戦後、故郷の山のほうにダムができた。沢山の砂利を必要とするので、数十キロ離れた川下から砂利を運んだ。数十メートルの高い鉄塔を数多く建てて、金属ロープが移動する。ロープには、10メートル間隔に多くの鉄製の籠がぶら下がっている。時々、籠に人が乗っていて、油をさす。命がけである。この仕事を「油さし」と呼ぼう。

 ある集落の高齢のおばさんを訪ねた。お婆さんのご主人は、年で亡くなっているが、私の知る限り、ご主人が携わった仕事の種類に関しては日本一と思う。とにかくすごい。ご主人は博学な方で、従事された一連の仕事を克明に記載した書類を、お婆さんから、お借りした。ご主人は「油さし」もしたそうだ。

 お婆さんとご主人の出会いから話していただいた。私が「ということは、恋愛結婚ですね」と言うと「大恋愛です」という。「恋愛」と「大恋愛」の違いがよく分らないが、とにかく農民の実話は小説より奇である。


[2980] 故郷のお婆さんたちー花 Name:村上久三郎 2017/11/05(日) 21:13 
 故郷では、自転車で走っている。多くのお婆さんたちと会い、話をする。
人それぞれの人生を歩んでいる。了解をもらって写真を撮る。今、写真を整理しているが、百枚を超える。「お婆さんたち」という題名でまとめている。
 ふと気がついたのは、お婆さんたちは高齢ですが、お元気だということ。
「故郷の食事は健康に良いのだろう」と思う。悪性の病気を聞いたことがない。
 
 80歳に近い、おばさんが隣村で畑を作っており、よく出会う。私が「沢山の花がありますね」というと、「仏壇とお墓に供える花だよ。それ以外の花はいらない」という。「なるほど」と思う。

 ある集落では、庭の周りにいろいろの花を植えているおばさんがいる。案内下さり、見せて戴いたので多くの写真を撮った。NHKで2回放映されたらしい。花の写真集をまとめている。花は美しいです。


[2979] 悩みのある若き女性たちよ、我が故郷へ Name:村上久三郎 2017/11/04(土) 20:17 
 私は故郷を探訪して、つくづく感じることは、「自然との触れ合いは精神的にも非常に良い」ということです。都会には、悩みのあるある女性が多いようだ。
こうした女性が私の故郷に来て下さると、悩みが消えるように思う。
 まず、高校生、大学生、OL数名の女性に来て戴いて、試みたいと思っているが、発信法がよく分らない。親御さんも来て下さったら、なおさら良いです。川で「かじか」を取り、川原で焼いて食べる。また、そのとき「はんご」でご飯を炊く。最高です。

 きれいな川で「木舟」に乗ったり、野イチゴや綿を植えたり、小さい牧場を作ってヤギや鶏を数羽飼う。「ちまき」「笹団子」「あまさけ」「みそ」などを作って、わいわい話す。「平家落人行列」「昔の結婚式」を再現し、できれば観光の目玉とし、「いくら儲けが出るか」を考える。あなたのために、お金を儲けてください。

 大切なことは「できれば、多少は儲けたいという気持ちを持つこと」「大きなお金を投資しないこと」「無理なことはしないこと」「人との競争意識は絶対に持たないこと」「できるだけ、高齢のお婆さんたちと話すこと」「自転車に乗ること」。村の高齢者を紹介します。
 まず、女性を最初に試みて、成功した次に男性を検討したい。


[2978] お知らせ! Name:事務局 2017/11/04(土) 19:27 
皆さま、お元気でお過ごしのことと存じます。

今夜もまた名月です。
外に出て、空を見上げませんか。

鈴木会長、村上殿、掲示板を読むのが楽しみです。
小論文に随時、移してゆきますので、お待ちください。

12日(日)は、京都集会です。京都博物館で「国宝展」、ご参加はいかがでしょうか。



[2977] V 先祖探訪ー長寿 Name:村上久三郎 2017/11/02(木) 22:33 
 血縁の親族を見ていると、無病長寿の人がいる。90代で健康で農作業する人、100歳以上で、頭がはっきりして無病の人。食べ物、家庭環境、DNAなどが影響するように思う。
農村地帯では、加工した食べ物は、あまり食べない。
 米、ジャガイモ、カボチャ、なす、大豆など、昔からのシンプルな食事をとるとよさそうだ。あまりいろいろのものを食べると、栄養になるだろうが、それだけガンを誘発する可能性が高くなる。鮨はよさそうだ。新鮮な魚がよいのだろう。90代100歳となると、先祖からのDNAも影響しそうだ。難しい問題でよくわからない。

 戦後、子供の時、食べたのが、桑の実、栗、柿、アケビ、野グミ、野イチゴ、山ぶどうなど、自然のもの。これらは、なんとなく、よさそうに思うが、よくわからない。
美味しいアケビの甘さは、バナナと比べて、比較にならないほどうまい。柿は数個食べると、軟便になる。しかし、ある「処理」をすると、腹いっぱい(20個程度)食べても腹を壊さない。腹を壊さないのが桑の実。便通が格段に良い。最近は桑茶というものが出てきた。「蚕に学ぶ」だろうか。

 


[2976] 小檜沢(こびさわ)峠 Name:鈴木丹下 2017/10/22(日) 10:02 
 慶応4年(明治元、1868)8月23日、予想を超える速さで新政府軍が会津若松城に迫った。そのため、私の曾祖母・鈴木光子は入城が叶わず、母、祖母、伯母らとともに戦禍を逃れ阿賀川沿いを北へ往く。現在の喜多方市を目指しての逃避行だった。
 回想記「光子」には逃避行のなか足を留めた村落として、西屋敷(下台の小名)、見頃(みごろ)そして吉志田(よししだ)が記されている。母・美和子が米沢領へ逃れる決断をし、藩境の山脈を越えようとして通過した村々である。

 私は、この10月上旬、曾祖母らが米沢領へ逃れるために越えた峠がどこであったかを調べようと喜多方市を訪れた。同市教育委員会文化課の協力も仰ぎ調査した結果、従前その峠を「大峠」としていたが「小檜沢峠」ではないかと考えるようになった。
 なお、回想記「光子」ではその峠を「十三峠」としているが、「十三峠」は越後山脈のなか険しい峠道を一般的にそう呼ぶので、曾祖母が二年後の斗南へ移住のため新潟湊に向かったとき越えた峠との錯誤と考えられる。

 喜多方市史(二巻)・添付図面「近世後期北方地方の組の範囲」に下台(西屋敷)、見頃、吉志田村が明示されている。曾祖母らは8月23日の逃避行一日目に西屋敷に着いている。この村は府城の北に当り行程5里3町余≠ニ市史に記されている。5里3町は約20.3kmである。8歳の娘、身重の母、70歳を超える祖母らは、敵が攻めてきた明方五つ時(午前8時頃)から、混乱を極めるなか驚くほどの距離を歩いている。
 この西屋敷に五日ほど留まり、越後口の戦いが始まり危険を感じたため、そこから西北の方へ逃げ見頃村に一夜の泊所を得る。
 さらに北へ進み吉志田村に着き、そこに三日ほど滞在する。ここまで来ると米沢領にもかなり近づいている。

 西屋敷、見頃、吉志田村は、現在の喜多方市に存在していない。私は、喜多方市の明細地図に、濁川に架かる見頃橋と押切川に架かる吉志田橋を見つけた。川の流れは150年ほどで大きく変わることは無いし、それに架かる橋もその地域の重要なインフラで呼称が簡単に変更されることは無いと考えた。つまり、それらの橋の近傍に見頃、吉志田村があったと判断した。
 曾祖母らの彷徨の道筋をたどると、明らかに濁川とその支流の押切川沿いを北へ進んでいるのが分かる。それらの川の東側を流れる田付川沿いの道を北へ往くと達するのが「大峠」である。

 江戸時代、会津から米沢へ向かうルートは、大塩川沿いに大塩村を通り檜原湖の西岸を抜け「檜原峠」を越える道が本道として整備されていた(塩川町史・一巻)。しかしその時は、9月8日に米沢藩が新政府に降伏した前後である。峠道の監視は厳しく、会津藩士の家族が、そこを越え米沢領に入ることなど考えられない。
「檜原峠」西の「大峠」は、戦国時代に伊達政宗の会津侵攻のため開かれた峠である。しかし「大峠」は、寛永4年(1627)、加藤嘉明に依って通行を禁止され、明治15年、会津三方道路の一つとして新道が開削されるまで全く往来できなかった(会津の峠・上)。従って曾祖母らの逃避行の時、その急峻さも相まって、この峠を越えたとは考えにくい。

 吉志田村に留まった曾祖母らは、そこを出て押切川沿いをさらに北を目指す。熱塩(あつしお)、日中(にっちゅう)村を経て小檜沢道を往き、「小檜沢峠」を越えるのである。著作‘会津の峠・上’に小檜沢峠に通じる間道は、寛永年間から閉鎖されたが、その後も歩き易い道だったので利用されていたといわれている≠ニ記されている。
「小檜沢峠」を越えた一行は、米沢藩の降伏を知り、直ぐに同じ道を引き返している。そしてその後、会津藩の降伏、斗南への移住、そこでの塗炭の生活など、さらなる艱難辛苦の道を歩むのである。

 私は、濁川に架かる見頃橋を渡り少し往き、やや高台になった小ぢんまりとした集落を見つけた。その真ん中に浄土真宗・西光寺があった。山門と本堂から成る境内はあまり広くなかったが、全体が美しい調和を保ち、いかにもコミュニティの中心になっている寺院と感じられた。
 喜多方市史(二巻)に見頃村中に西光寺あり≠ニ記されている。間違いない、この集落こそ曾祖母らが一夜を過ごした旧見頃村だった。
 そこからはるか先に、米沢へ越えなければならなかった山脈が望まれる。曾祖母らが流浪を始めた8月23日は、今の10月8日である。ちょうど同じ時季にここを訪ねた私は、北の山から容赦なく吹きつけてくる冷たい風に立ち尽くしていた―。


[2975] IV  先祖探訪ー先祖のご霊前に Name:村上久三郎 2017/10/22(日) 08:42 
 貞次郎が住んだ家の南に道があり、そのわきに観音様がある。この道を通ると我が家の屋敷に自然に入る。戦後まで、村人は私の生家の前庭を道だと思っていた。
私の家族は「人が通るだけ、たくさん歩けばよい、減るものではない」との考えだった。村人は、おおらかなものです。
 
 私の祖母の生家は、この道沿いにある。観音様から近い。私の生家と祖母の生家の真ん中あたりに、観音様がある。貞次郎は、田畑がなく、この観音様の「おもり」もしていた。いろいろのことをして生計を立てなければならない。
祖母と貞次郎の会話である。明治30年代。祖母20代。以下に「上州」とあるのは、群馬県。貞次郎は群馬県で、養蚕を学んだので、「上州」と、今も呼んでいる。

 祖母「上州さん。一生懸命だね。何を作っているんですか」
 貞次郎「これはね。蚕をおくもので、エビラというんだよ」
    (エビラは竹で編んだもの)
 祖母「上手だね」
 貞次郎「これから田植えも始まり、忙しくなるでしょうね」
 祖母「そう。もうそろそろ始まるよ。ところで、うちの畑に沢山の桑を植えました
    よ」
 貞次郎「いまに大きい木になり、蚕を沢山飼えるね」
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  祖母の生家から分家になった家がある。その分家に娘が生まれた。明治30年代。
 そのころ、こともあろうに、村いちばんの庄屋のご主人が、この娘を非常に好きにな
 った。
 
  「ご主人」は、神様に頼んだ。神様が言った。

 神様「・・・ならば、家もすべて捨てなさい。た
    だし生きるための最小限の田畑は持ってゆくがよい」
 ご主人「そうか。すべて捨てて出てゆくのか」
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 途中ですが、フィルムが切れました。
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 大正時代、上記の娘に男の子が生まれた。時は流れ現代になった。貞次郎の末裔は、会社を経営している。娘の末裔は、その地域で知られた「博物館」を作ったが、親族には「秘すること」があるのです。


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