戊辰戦争研究会の掲示板



[1213] 静岡史跡めぐりのお知らせ Name:事務局New 2012/05/20(日) 09:07 
会員用掲示板の方に、静岡史跡めぐりをアップしました。
ご覧下さい。


[1212] 京都史跡めぐり・木屋町通周辺その2 Name:勝海舟(事務局・代理投稿)New 2012/05/20(日) 09:00 
三条大橋欄干の刀傷  池田屋事件??

 三条大橋が現在のような形になったのは、豊臣秀吉の頃からだそうですが、もちろん、橋自体は何度もつけかえられています。この橋は現在でも、木製の橋で、時代劇っぽくて趣があります。

 その三条大橋南側の欄干、西詰めから2本目の柱についている擬宝珠(頭の部分)に 2筋の刀傷がついています。結構、ざっくりついています。かなりの力でがつんとやったのでしょう。大橋の西詰めにある銘板には、「池田屋事件の時につけられた・・」とありますが、さて、真相や如何に。少々池田屋からは遠いように思われますが。



[1211] 神保殿へ江川太郎左衛門英龍のことで。 Name:新島八重子 2012/05/18(金) 07:27 
韮山反射炉を最終的に作り上げたのは息子の英敏ですが、反射炉を着工したのは英龍です。
この方、本当にすごい人なんですけど、地元でもあまり知られていないと思います。
この方、過労から肺炎になってしまってなくなってしまったけれども、生きていたら幕末の様相がまた変わったかも。。。と思ったりします。テレビに出てもいいくらいの方らしいです。
本当は。

集会、晴れるといいですよね。梅雨時なんで。

[1210] 京都史跡めぐり、その1・・三条大橋東詰め Name:勝海舟(事務局・代理投稿) 2012/05/18(金) 00:03 
京への入り口

 現在、日曜昼にNHKの地上波で「新選組血風録」が再放映されています。来年の大河ドラマは「八重の桜」で幕末の会津と明治初期の京都が舞台になることでしょう。そこで、これからは京都方面の幕末・明治史跡を紹介していこうと思います。

 東国から京へ入るには、中仙道と東海道がありますが、どちらで来ても近江の草津宿で合流し、次いで大津宿を通り、日置峠を越え(越すに越され「逢坂の関」がここです。)、三条通を通り、この三条大橋を渡ることになります。

 文久2年(1862)12月、会津藩士1000名を引き連れた会津藩主、松平容保も京都守護職に就任すべく、三条大橋の東詰めで京都在住の幕府の役人たちに出迎えられました。これ以後、会津藩士たちは5年間、京で過ごすことになります。

 文久3年(1863)2月、江戸から上京してきた浪士組(京に残った浪士たちが、後に新選組となります。)も、元治元年(1864)2月会津からやってきた山本覚馬も、この橋を渡って洛内に入ったことでしょう。



[1209] 韮山反射炉 Name:神保修理 2012/05/15(火) 22:51 
>永山殿
黒松内町のお話、楽しみにしておりますよ。

さて、静岡です。
私は幕末維新の史跡紹介が新聞に掲載されましたら、将来、行きたいと切り抜きをして溜めておりました。その中で、1999年の八月に切り抜いておいた、「幕末、徳川幕府が威信をかけて建設した洋式金属溶解炉・韮山反射炉」、やっと出番となりました。見学できることになり、感無量です。



[1208] 総裁殿 Name:永山弥一郎 2012/05/13(日) 14:06 
昨年、この掲示板で総裁殿よりお話し頂いた
作開の斗南藩士に興趣を覚え、今回の史跡巡りと
なりました。

黒松内町作開地区は、現在も農耕地帯といった趣きでした。
カタクリの花が足元に咲き乱れ、踏まないようにと気遣いながら
会津人・小池清次郎さんの寄進による熊野神社を参拝させて
いただきました。

内容の乏しい報告ですが、お話しできる機会があれば幸いです。

写真:熊野神社の参道
(車道もあるのですが、当方は畦道の中の参道を本殿へと進みました)



[1207] 北海道の会津人 Name:榎本武揚 2012/05/12(土) 23:04 
永山さん、すばらしいですね、
実は尋ねようと思っていた場所です。詳細な報告、期待しております。


[1206] 堺の幕末維新史跡、堺事件、その5 Name:勝海舟(代理投稿・事務局) 2012/05/11(金) 15:55 
切腹を免れた藩士たち

 堺港に上陸してきたフランス兵を殺害した土佐藩士たち、大坂西長堀にある土佐稲荷の境内でくじ引きをして、切腹することになったのは20名でした。フランス人艦長トアールは11人で切腹を止めさせたので、残りの9名は生き延びたことになります。ただ、一旦は死ぬことに決めた彼らのその後の運命は、あまりはかばかしくはありませんでした。切腹し損ねた侍の運命は、この江戸時代の武士道が色濃く残る時代、つらいものだったようですよ。
 大正3年、森鴎外が「堺事件」を、大岡昇平が昭和59年に「堺港攘夷始末」(未完)を書いています。

両国人の顕彰碑

 妙国寺境内に、堺事件で死んでいった人々への顕彰碑があります。大正6年(1916)フランス首相クレマンソーが、戦死したフランス兵の慰霊碑を並んで建てることを条件に、妙国寺に土佐藩の十一士の顕彰碑を建てる事を承諾したのだそうです。
 それで、現在も妙国寺境内には、フランス兵(向かって右側)と日本のサムライ(向かって左側)の碑が、並んで建てられています。

宝珠院

 土佐藩の老公、山内容堂が妙国寺の向かい側にある、宝珠院に十一基の墓を建て、法名・実名・享年・辞世の句を刻んで、追悼しました。
 現在、この墓は十一基、残されてはいるのですが、幼稚園の中にあるので、休日は中へ入って、お参りできないのが残念です。たまたま以前に行ったとき、幼稚園が工事中で、お参りできたことがありました。140年前に建てられたお墓の周りに、子どもたちの歓声が・・というのも、時代の流れなのでしょう。



[1205] 「斗南藩歌棄郡支配領」について Name:永山弥一郎 2012/05/10(木) 08:34 
事務局殿、ありがとうございます。

[1204] 「斗南藩歌棄郡支配領」について Name:事務局 2012/05/09(水) 23:13 
>永山殿
永山殿の書き込みをご覧になられた方から、メッセージを頂きました。
会員用掲示板にてご覧下さい。


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